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　その時、少女はセントラルドグマと呼ばれる施設のある場所に佇んでいた。細胞内の、遺伝と分化を司る機能と同じ名前で呼ばれるこの施設はＮＥＲＶの最高機密であり、人類の命運を左右するプロジェクトの中枢であり、そして一人の女と、甘んじてその奴隷と成り果てた者達の野望の象徴であった。目の前には、底から鈍い光を放つ深いサイロが無数に並び、大量のＬＣＬが冷却と反応制御の為に循環していた。
　ドグマの最深部に続く暗がりをしばらくの間見つめていた少女は、身に付けていた衣服をとり、きれいに畳んで足元に置いた。小さな水音を立て、少女の体はサイロの中を沈んでいった。
　現在何が起こっているのか、これから何が起ころうとしているのか、正確に把握しているのは彼女だけだった。もっとも、彼女とて、正確に予測し得るのはその途中までの事だとも理解していたのだが。
「呼んでる・・・」
　数時間後、少女は液面から顔を出し、体中にまとわりつく血のような匂いとともにサイロを出た。
「ここにいたのか。」聞きなれた男の声がした。

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　午前３時ともなると、さすがに残っている者は他にいない。カイザー=田中博士も、通常ならば遅くとも午後８時には仕事を打ち切る。早く帰って早朝出てくるのが彼の流儀だった。勢いに任せて夜更かしをしても、実際には大して能率を上げる事はできないからだ。しかし今夜は、目の前に突きつけられた事実にいつになく興奮していた。
「若槻が寄越したこの・・・彼はこれを”天使”と呼んだ・・・」カイザーは、硬質樹脂に封入された小さな物体をマイクロスキャナー顕微鏡にかけて観察した。
　それは、奇怪な生物だった。全体としての形は、哺乳類の胎児を思わせるが、肩から腰にかけて大きな突起が配列している。特に、肩甲骨にあたる部位から対になって伸びるものは、翼を連想させた。そして・・・頭部、額のあたりには眼球に酷似した器官の存在が示唆される構造が・・・数十年前、南極に出現した光の巨人の事を、カイザーは無論知るよしもない。そして、歴史の闇に葬られた事実の存在を感じ取っても、彼にはさしたる感慨はなかった。カイザーの心を支配していたものは、明らかにされた事実による興奮だった。
「遺伝子の塩基配列は９９．８９％まで人類と同じ、か。予想通りだ。」カイザーは画面を切り替え、プログラムを実行する。いくつかの表示を目にしたカイザーは小さく口笛を吹く。
「やはり、な。私がこれまで、なんとなく疑問に思っていた事柄、生物の進化、いや、生命の本質と言うべき問題について、このサンプルは重大な示唆を与えてくれる。」カイザーはデスクを離れると煙草に火を点けた。
「人類には、まだチャンスが残っているぞ。」
　深夜の研究室は、不思議な静寂の中にあった。コンプレッサーやヒーター、その他さまざまな機器の出す低い唸り音は、闇の中に沈んでゆくようだった。単調な音が微かに響く人気の無い建物の中は、ひそやかに息を殺す魔物の胎内を思わせた。



アメリカ合衆国・ニューヨーク
　伊吹マヤ博士は、空港からバスに乗り目的の街に到着した。薄汚れた町並みの至る所に残る原色の文字や絵からは、荒々しい感情とくすぶる不満や不信とを感じ取る事ができた。街角にたたずむ人々の敵意のこもった視線は、娘時代の彼女にであったなら目的地まで歩いてゆく勇気を即座に失わせることができただろう。しかしマヤは軽やかに靴音をたて、平然と歩を進めていった。
　何十年もの間、競争の激しい業界でやり手のビジネスマンやこすっからい業者、あるいは裏稼業の男達とも対等に渡り歩いて来た今のマヤにとっては、存在する危険はさしたるものとは言えなかったのだ。それに、今の彼女にはもはや失って惜しいものなど何ひとつない、という開き直った気持ちがあった。
「ここね。」古ぼけたビルは、何故か片側の壁だけが真新しいコンクリートの地膚を晒しており、そのごく一部にレンガ模様の化粧タイルが張り付けられていた。マヤは入り口を探す。”ＧＲＥＥＮ”と書かれた板切れを打ち付けたドアを押した。
「すみません、お店は臨時休業なんです。事故で壊れちゃった上に、主人が旅行から戻らなくて・・・」振り返ると、青年が微笑んでいた。年齢は２０代後半か？やや太り気味の体と子供っぽい表情に愛嬌があった。きらきらと輝く瞳には知性と強い意思がある。仕事に打ち込み、毎日が楽しくて仕方がない、そんな印象だった。
「あなた、もしかしてマルコ=ローエル博士？」女学生のような物言いは、マヤがマルコに感じた親しみのせいかも知れない。マヤの問いにマルコはびっくりして相手の女性を見た。「そうですが・・・あなたはいったい？」
「あ、すみません。私、伊吹マヤと申します。あなたにお会いするために参りました。」



　夜更けの澄み切った空気は、けして眠ることのない大都会の喧騒を遠い風に乗せて運んでくるが、それは意識しなければ気づかないほどのかすかなものだった。座敷の外から聞こえてくるのは、邸内にしつらえられたせせらぎの水音と、獅子脅しの放つ軽やかな音色だけだ。
「は？」
　政府要人が秘密の打ち合わせに利用することで知られる料亭に呼び出された霧島陸将は、相手の言葉が理解できないふりをした。要領を得ないぼんやりとした表情の裏で、頭脳を目まぐるしく回転させていることは、目の前の男もとうに気づいているだろう。
「上層部に接触し、譲歩を引き出す事に成功したのだよ。」相手はそういうと手元の杯を口に運んだ。

「ここに来て取引など・・・彼らが何かを譲るなどと、本気で考えておられるのですか？」手杓で酒を注ぎ、相手の瞳を正面から射る。
「現在の状況は、当初想定したシナリオの範囲内です。山岸博士を失った事は、敵も我々と同様の遅滞を招いているはずです。」自分に命令できる立場にある者達の中でも、最も高い地位にある男の顔を、霧島は真っ直ぐ見詰めて訴えた。
「君のやり方ではリスクが大きすぎる。」政府高官は、いらいらした様子でかぶりをふった。
「彼らは何も、ナチスのように我々を根絶やしにしようとしているわけではないのだ。我々が適切な圧力を加え、その動きを押え込む。政治的に、ね。それで充分だろう。」
「そんな甘い考えは通用しない！」霧島は声を荒げた。「彼らが目論んでいる事は、我々の歴史の否定、我々の世界観の否定、我々の存在意義の否定ですぞ！ナチスの虐殺や前世紀末の民族主義テロの比では無い！これは、生存を賭けた戦争です。そして、今はまだ彼らにも、勝算があるわけではない。薄氷を踏む思いで危険を冒しているのはお互い、同じでしょう。臆病風に吹かれた方がすべてを失いますよ。」
「これは決定事項だ。国民にとって、最善の方法なのだよ、霧島君。」
「腰がくだけた理由は、首相の椅子ですか？」
「我々は、全体的な状況を把握し、対応しなければならない。」政府の中枢に席を占める男は、霧島の視線から目をそらした。

「彼らは、ゼーレに屈した。」帰りの車中で、霧島は瞑目した。
「閣下、尾行です。」車を運転する部下の声に、霧島は目をひらいた。
「振り切れるか？」
「お任せを」ハンドルを握る若者はアクセル・ターンで生じた回転を利用して、横すべりしながら交差点を左折した。追跡してきた車は曲がりきれずに交差点を通過する。カウンターをあてて体勢を立て直した霧島の車は猛スピードで市街を駆け抜けていった。
「新手です！」部下の声に霧島は後ろを見る。追いすがる車から火線が放たれたと気づいた次の瞬間、着弾の衝撃が車体を振動させた。
「閣下！」上官を案ずる部下の声。
「しゃらくさい！」懐から大型の拳銃を取り出し、後部車体に目立たないよう取り付けられた銃眼から突き出す。耳をつんざく轟音の後、追手の車はエンジンから火を噴きコントロールを失った。

「それ見ろ。敵は戦争を止めちゃいない。」憮然とした表情で霧島はつぶやいた。

　翌朝、霧島陸将は、オフィスにスタッフを招集した。
「諸君、最悪の事態となった。」忠実な部下達は、霧島の言葉に黙って頷いた。



恒星フォーマルハウト第四惑星の観測基地
　カイザー=田中博士は、あてがわれた研究室から、衛星軌道上を周回しながら待機している、自らの率いて来た船団のスタッフ達と打ち合わせを続けていた。
「以上が日報です。」部下の報告に、カイザー=田中博士は肯いた。
「追って指示する。」不安そうな相手を安心させるように、にっこりと笑って頷いてみせた。
「少佐、」カイザーの呼びかけに、脇に控えていたがっちりとした体躯の男が反応した。どう見ても、科学者というタイプではない。
「次のシャトルで、降下して来い。」
「了解。」言葉少なく応じる少佐と呼ばれた男が、その直前、カイザーの隣に佇む若い女にちらりと目配せし、女もそれに応じた事に、カイザーは気づかなかった。

「それにしても、この惑星の生命の多様性は予想以上だ。」打ち合わせの後、カイザーは女に言った。
「環境に対する、柔軟な対応力を持っている。現代の地球の生命に無い、いや、地球の生命がいまだかつて得る事のできなかった力だよ、これは。」言いながら彼は、ディスプレイに次々と画像を表示させる。興奮して喋り続けるカイザーを、傍らの女はにこにこしながら見ていた。


「カイザーの件は、予定通りか？」若槻マサキは、密かに訪問して来た部下に尋ねた。彼女は遺伝子メジャーが送り込んだ調査船団を率いる、生物学者カイザー=田中博士の秘書として惑星に上陸していた。
「ええ。とっても可愛い人ですわ。」女は無邪気な笑顔を見せた。
「彼に与える情報とそのタイミングの事を言っている。地球ではそろそろ騒ぎが始まる頃だ。あの馬鹿に、自分の着想が人類の救世主となる、と言う幻想を抱かせなくてはならん。」
「気にいらないの？私が彼に抱かれる事が？」無表情な若槻をからかう。
「本当に奴のものになってもいいんだぞ。」
「馬鹿じゃないの？」女は真顔で答えた。
　ワークステーションのブラウザが、ニュース配信を知らせた。
「始まったな。」若槻はポケットから小さなケースを取り出すと、女の方に投げてよこした。
「これを奴に渡してこい。」女は肩をすくめると去っていった。



「お気の毒です・・・」駆けつけた若い女性には、医師の声など聞こえていなかった。通された部屋で、ディスプレイに表示された恋人の変わり果てた姿に泣く事も忘れて立ち尽くした。
「チャーリー・・・どうして・・・」愛する人の亡骸に触れることはできない。二人の間は３重の隔壁で隔てられていた。しかも最後の別れはあわただしかった。すぐに高熱で焼却しなければならないのだ。

　その症例が初めて報告されたのは、合衆国西部のある地方都市でだった。発熱と虚脱感、風邪と良く似た症状が数日間続いた後、呼吸器系の炎症と粘膜からの出血、はげしい嘔吐と呼吸困難の後早くて数日、遅い場合でも２、３週間で死に至る。
　政府機関が、これを未知の伝染病であると知った頃には、すでに十指に余る州で罹患者が確認されていた。大統領は生物・化学戦対応部隊の投入を決意、患者をレベル４施設に隔離し、感染地域を徹底的に封鎖する事を命じた。

　ホワイトハウスに集結した関係機関の代表達は、一斉に状況を報告した。
「現在、隔離地域は全米で５５３個所、隔離患者の総数５４，３００人、死亡した患者の総数は７，６００人を越えると思われます。」
「陸軍第９、１１軍団（生物・化学戦）は、現在感染地域の病院の接収を行なっております。病院勤務の医療スタッフのうち、伝染病治療及び防疫に関するスキルを持つ人々は、軍の指揮下に入りローテーションに加わっていただくことに決まりました。」
「不足していた輸血用血液、及び血液成分は、日本、ユーラシア共和国を始めとする国々から回してもらいます。大統領閣下、午後のコミュニケでは各国への謝辞を・・・」
「原稿は用意してあります。後程お読みください。」
「それで、諸君・・・」大統領が口をひらいた。
「我々は、いつ、いかにして敵をノック・アウトするのかね？」一同は沈黙し、指導者を見た。
「・・・わかった。」大統領は肯いた。

「主よ・・・」その夜遅く、ホワイトハウスの私室で大統領はつぶやいた。
「罪深き我らに憐れみを・・・」





　カトマンズの街は、今日も祈りのなかにあった。風にのり、信仰心篤い人々の唱える神を称える声が聞こえてくる・・・何千年もの間変わらない時の流れは、訪れた者の心に清らかな世界を信ずる人々の存在を深く刻み付ける。その世界に至る道を見出す事ができるならば、何を惜しむだろうと・・・
　空港から車に乗りかえる。延々と続く細い山道が尽きてからは、険しい尾根道を一歩ずつ歩くしかない。青葉シゲルは、やがて瓦礫の前に佇むとあたりを見回した。
「ここが、そう、か・・・」シゲルはポケットからひと束の線香を取り出すと、ライターで火を点け、足元の小さな石の上に乗せた。
「冬月副司令はここで何をしていたのだ？・・・」線香の煙に手を合わせ、シゲルは冬月の温和な風貌を思い出していた。かつて青葉シゲルがＮＥＲＶへの配属を望んだのは、最先端のプロジェクトに対する興味の為だった。組織の中で何年かを過ごすうちには、色々な事が嫌でも目や耳に入って来た。司令として絶大な権力を独りふるう碇ゲンドウに対する反感と不信が若者の胸の中に芽生えた。それでも、彼をＮＥＲＶに留まらせたものは、副司令・冬月コウゾウの存在だったと言える。
　彼が従う限り、目的の為には手段を選ばぬ様に見えるゲンドウにも信頼すべきものがあるに違いない、と。
「いや・・・それは所詮言い訳に過ぎなかった。実際のところ、俺も深みにはまっていたのだ。生命の神秘を我が手に掴むと言う、甘く危険な、超越の魅力に。」遠く、家畜を追う者の叫ぶ声が風に乗り聞こえてきた。

「綾波レイを探して欲しい。」ブロンクスにある店にシゲルを訪ねて来た時、日向マコトはそう頼んだ。
「セカンド・チルドレン：惣流=アスカ=ラングレー、サード・チルドレン：碇シンジ、フォース・チルドレン：鈴原トウジ、以上３名は存命、フィフス・チルドレン：渚カヲル、死亡。ファースト・チルドレン：綾波レイ、行方不明・・・」マコトは、シゲルの目をじっとみつめた。
「彼女は、死んだと思う。」シゲルはそう言って首をふった。「何故なら彼女は・・・」
「リリスの顕現・・・世界の生贄となって消滅した・・・そう、その通りなんだ。しかし、」
「日向、もう、あれには構わぬ方がいい。俺はそう、思う。」
「青葉、あれの為に多くの人命が失われた。その結果がこれでいいのか？世界は今、閉塞と停滞の中にある。宇宙の果てに飛び立とうとも、その一方で人類の種としての衰退が始まっているんだぞ。」マコトの横顔に悲しみと痛みを見て取ったシゲルは、ふう、と大きな溜息をついた。
「葛城さんの事を言ってるのか？」シゲルの問いに、マコトは答えなかった。


「日向、ここには何もないぞ。」瓦礫の山を目の前にして、シゲルは呟いた。一陣の風が尾根を吹き渡る。周囲に人影はない。ここはすでに、忘れ去られた場所なのだ。
「あの時リリスは去ったのだ。副司令にいまさら何が出来たろう・・・俺達にだって・・・」
　夕日が、瓦礫を紅く染め始めた。背負ったケースを降ろし、楽器を取り出したシゲルは、静かなメロディーを奏で始めた。目を閉じて演奏に集中する。音楽はやがて風に乗り尾根を伝わっていった。カトマンズの街に響く、祈りの声にも似たそのメロディーは、魂の還る場所に捧げられたものだった。
「冬月さん、安らかに・・・」青葉シゲルの演奏は、夜が更けるまでやむ事はなかった。



「屋敷に、ネズミが入り込んだようです。」太平洋を巡航する大型客船、実はただ一人の乗客の為に建造されたその船の豪奢な船室で、老人は側近を務める黒衣の巨漢の報告を受けた。
「むざむざと、取り逃がしたようです。担当者の処分を行ないます。」黒衣の巨漢は、まるで自分自身の犯したミスであるかのように恐縮して主に頭を下げた。
「ふ。安全に脱出できる程の者でなければ、そもそも侵入も不可能なはず。それにどこかの政府が手を貸したか・・・」老人はおかしそうに笑った。
「しかし、もうちょっと、だったな、その連中。今ごろやって来ても遅い。」
「御意。」側近の男はうやうやしく頭を下げた。
「宇宙港の警戒を強化。侵入する者を殲滅せよ。」老人はそっけなく命じた。



　土師コウジは、霧島陸将の呼び出しをうけ、戦略自衛隊空挺旅団の基地がある新習志野を訪れた。入り口でチェックを受け、ゲストルームで時間を潰していると、私服を着た若い尉官が自家用車で迎えに来た。
「２時間程かかります。」申し訳なさそうに言う若者にうなずいて見せ、土師は助手席に腰をおろした。
「基地の外に出ます。」土師の不審を懸念しているのだろう、若い尉官は途中たびたび話し掛けてきた。
「私が私服でお迎えにあがりましたのは・・・」
「お気遣い無用。私もまあ、同業者のようなものだ。」土師は笑った。

「君は何故、特務に志願を？」雑談を交わし打ち解けてきた頃、土師は若者に尋ねた。
「キツい仕事だぞ。」
「はい。しかしそれだけにやりがいがあって・・・普通のサラリーマンにはなりたくなかったんですよ。」若者は屈託なく応じた。
「いつか君は戦闘で死ぬことになる。その死は犬死にかもしれんぞ。」
「はい・・・でも、捨て石になる事は覚悟の上です。」
「それが、国家を誤った方向に進ませるとしても？」
「そうならない為に、選挙でふさわしい指導者を選ぶよう努力しますよ。それでも駄目なら・・・その時は、自分にもこの国にも、運が無かったと思うしかないじゃないですか？」
「なるほど。」土師は苦笑した。




　はてしなく続く緑の海は、恒星の光を反射して眩い輝きを放っていた。その輝きとは、終わりのない繁栄を確信する者が持つ、生命の息吹そのものだった。
　生物学的防汚服を身に付けてフォーマルハウト第４惑星の森林地帯に分け入ったカイザー=田中博士は、荒々しいまでの生命力の奔流を目の当たりにし呆然となった。
「すさまじい・・・」カイザーは、しばらくの間唖然とした表情で立ち尽くしていた。彼の頭上には地球上の裸子植物と多くの類似点をもつこの惑星の樹木が天を目指してその梢が視界の限界まで達しており、先日アスカが星空のようだと表現した微かな木漏れ日が煌いていた。
　信仰の心をもつものならば、この場所を精霊の宿る神聖な場所と表現したかもしれない。合理主義の権化であるカイザーにはそのような考え方は感傷としか考えられなかったが、別の意味で彼は、この場所に対して深い感慨を抱いていた。
「この惑星に生息する生物の遺伝子は、９９．８９％まで地球の生物のそれと一致する。この事を、もっと重大な問題として捉えるべきだ。」カイザーは、独りきりのその場所に講義を受ける学生達がいるかのような口調で話し掛けた。独り言、それはこの天才の一面を物語るものだったかも知れない。
「いや、そもそも、遺伝子の塩基配列は種によって意外なほどに変化に乏しいのだ。前世紀末、ヒトゲノム・プロジェクトによって明らかにされたデータは学会に衝撃を与えた・・・」彼の講義は続く。
「塩基配列は、生命のメカニズムに関する最終的回答ではなかった。極論すればそれは、アミノ酸を作り出す鋳型に過ぎん・・・本質は別の所に存在するのだ！」生命の神秘、それに誰よりも近づいている自信が彼にはあった。
「しかし、人類補完計画・・・」先日、あの得体の知れない男・若槻マサキから提供された標本とデータの事を思い出していた。セカンド・インパクト、サード・インパクト、そして（ネオ・）ジェネシスと呼ばれた激烈な環境の変化、その詳細は未だ人類にとって謎に包まれていたが、若槻と彼が属する組織は、その謎に深く関わっているのではないか？・・・カイザーは、自分の独創と信じていた学説の少なくとも一部が、彼らにとってすでに旧聞に属するものである事に強い衝撃を受けたが、その一方で、それまで疑問に思って来た事に対する大きな手がかりを得たように思った。かつて、現代を遥かに凌ぐレベルで生命のメカニズムに介入した者達がいた・・・ならば、三たびそれを行なう事によって、人類はまだチャンスを得る事ができるのだ。
「連中を利用させてもらうぞ。」カイザーは不敵に微笑み、さらに奥深く分け入って行った。
　カイザーはやがて、一本の大樹に近づくとその外皮に小さな機具を打ち込んだ。軽い衝撃音とともに装着された機具のバルブを開くと、容器の中に透明な液体が流れ込んでゆく。持参した測定装置を接続してその表示を読み取ると、大きな溜息をもらした。
「地球を、再び・・・」カイザーの瞳に浮かぶものが野心であるのか、それとも別の思いであるのか、それは彼自身にすらわからない事だった。


「伝染病？」外宇宙探査船団司令、惣流=アスカ=ラングレー博士は、訪問先のフォーマルハウト第四惑星観測基地で知らせを受取った。惑星探検を指揮する生物学者、折竹マゴシチ博士と、惑星の自然・豊富で多様な遺伝子を産業に利用しようともくろむ遺伝子メジャーが送り込んだ調査団を率いる生物学者、カイザー=田中博士が同席していた。
「感染経路、病原体の特定に手間取っているようですね。」カイザーは配信されたニュース文面に目を走らせると言った。
「２０世紀までは、こうした事は何度かあった。」折竹が口をひらいた。
「アフリカ・南米の奥地で、その地域に生息する動植物を宿主とする細菌やウィルスが、なんらかのきっかけで国外に持ち出され、人間に感染して猛威をふるう、という・・・」
「密猟や、乱開発による環境の破壊によって、それまで生息地域を限定され、人類の生活する地域から遠く離れていた宿主が人間と接触した。」アスカも、以前読んだ文献を思い出していた。
「そう。しかし今日では、」折竹はカイザーを見た。
「はい、先生。今日ではそんな事は有り得ません。何故なら、何故なら現在の地球には、手付かずの未知の病原体など存在しないからです。」カイザー=田中は言った。
「一部の者達がサード・インパクトと呼ぶ時空不連続現象以降、地球の環境に何か大きな変化があった事は疑いようのない事実です。」カイザーの声に熱がこもる。
「生命にとって、最も重要な種の多様性が、地球では失われようとしている。地球は今や、標本箱になろうとしている！出生率の低下も、その事と無関係ではないはずだ。」折竹は、目を閉じて黙って聞いていた。

「この惑星が、種としての行き詰まりを迎えた人類にブレクスルーをもたらす、と言うのか？」自室に引き上げたあと、折竹は窓から見える夕日をみつめていた。
「田中は、行動すべきだと言う。」
「私は、老いたのか？・・・」

「彼なりに、現状を憂え、努力している・・・」アスカも、カイザーの事を考えていた。
「それが功名心にかられたものであったとしても、彼の思いは真っ直ぐなのだわ。」アスカは窓際に立ち、透過度を上げて外の景色を見た。夕日が、窓の外の世界を茜色に染めていた。アスカは沈み行く恒星を見つめ、まるでそこに悪意が存在するとでも言いたげに表情を強張らせた。
「でも私は、彼を信頼する気にはなれない。あの時、彼が”はっくるべりい”でした事を思えば。」アスカは窓の外に向かってつぶやいた。
「過ちを・・・過ちを三度起こしてはならない・・・」アスカは、不吉な胸のざわめきを覚えた。

「そうか・・・わかった。」若槻マサキは電話の相手に二言三言指示を与えると、アスカがしたのと同様に窓の外の夕日をじっと見つめた。



　何十年も前に建設され、採算がとれない為に閉鎖された地方空港。かつては発着する旅客機が翼を休めた整備工場は、今は窓も屋根も埃にまみれ、周囲の景色に溶け込むようにその身をくすませていた。しかし、その内部では大型輸送機３機の周りで出発準備が急ピッチで進められていた。
　貨物搬入口からは、装甲兵員輸送車を始めとする兵器・器材が搬入されていた。一方、格納庫の一角に作られた臨時の会議スペースでは、分隊ごとに集合した完全武装の兵士達がそれぞれの指揮官からブリーフィングを受けていた。
「遠くまで呼び出して、すまなかった。」かつて整備責任者のオフィスとして使用されていた部屋に陣取る霧島陸将は、部屋にとおされた土師に椅子をすすめると猛犬のような笑顔を見せた。土師は、霧島が着用している戦闘服も、腰の拳銃も、戦略自衛隊の装備品ではないことに気づいた。胸騒ぎを覚えた彼は、霧島の顔を睨みつけた。
「これは、何のまねです？」
「敵の拠点をたたく。」霧島の表情からは、何も伺い知ることは出来なかった。
「あんたのガラじゃない！」土師は思わず大きな声を上げた。
「他の者には任せられんよ。」霧島は不敵に笑う。
「何があったんです？」答えはなかった。
「政治と言うやつか・・・」土師は押し殺した声で言った。
「事情を隠して、あんたには色々と厄介事を押し付けた。悪かったな。」霧島は人の悪げな笑顔をみせた。
「マナさんはリハビリ中だ。半月ほどで元どおりになるだろう。一度くらい見舞いに来たらどうです。」土師の言葉に霧島は何も答えなかった。
「彼女はいい。優秀で、真っ直ぐで・・・それが何故なのか、解っているはずだ。解っていてあんた、死に急ぐのか？」
「土師さん、」霧島は苦笑いして相手を見た。
「バカか、あんたは。野たれ死にはお互い覚悟の上だろ。」
「バカはあんただ。」土師は煙草に火を点け、窓の外を見た。

　霧島は金庫を開け、中から小さな鍵を取り出し、部屋の出入り口近くに控えていた、土師を出迎えた若い士官を目顔で呼び寄せた。そして彼に鍵を手渡し、指示を与えた。
「我々が帰って来なかったら、この土師さんにすべての情報を提供する。軍事機密の漏洩となるが、かまわん。それからお前は土師さんの指揮下に入れ。新しい戸籍から警察内での身分・肩書、経歴、そのあたりの事は、この人がなんとでもしてくれる。」土師を見てにやりと笑った。
「閣下、私もお連れください！」若者は訴えたが、霧島は笑って首を振った。
「阿呆。特攻隊と勘違いするな。次の作戦には連れていってやる。」

「出撃準備、完了しました。総員、待機しております！」土師にも見覚えのある、確か一佐で霧島の片腕と目される男が出入り口に立って敬礼した。
「よし。」霧島はうなずくと机の上に置かれた自分の装備を取りあげた。部屋を出る霧島は、途中ふと思い付いたように立ち止まり、振り返って土師を見た。
「土師さん、今度こそ自分の後悔に落とし前をつけろよ、いいな！」それだけ言うと、霧島は階段を降りていった。
　土師は、何時の間にか夜がふけている事に気づいた。窓を開け、外を見た。耳を劈く爆音が、山奥の静けさを圧していた。翼端標識灯すら点けない漆黒の機体が、格納庫を後にし、闇の中に溶けていった。1機ずつ、滑走路に向かってタキシングして行く戦闘用大型輸送機の群れを、土師は黙って見送った。

「娘を頼む、とは言わんのか？」航空機エンジンの爆音が去り、帰りの車の中で土師はつぶやいた。
「言わないよな。俺には・・・」



　ウエイトレスが運んできたコーヒーに角砂糖を入れ、スプーンでかき回している所に待ち人はやって来た。こちらを見て微笑むその男は、かつて戦友として苦楽を共にした頃そのままに年齢を重ねてきたものと見えた。眼鏡の奥の穏やかな視線は彼の実直で誠実な人柄を表していた。
「マヤちゃん？」控えめな態度で話し掛けたのは自信の無さのせいではなく、慎重で遠慮深い性格のためだった。肯くマヤににっこりと微笑んだ日向マコトはテーブルの向こう側に腰掛けた。
　再びやって来たウエイトレスが注文を聞いて立ち去ると、二人はしばしの間自分の手元を見つめ、一言も発しなかった。
「元気そうだね。」しばらくして、マコトが口をひらいた。
「あなたも。」マヤも微笑む。言葉に託された思いについて、お互い多弁は無用だった。
「今は？どうしているの？」マコトの問いに、マヤはかぶりを振った。
「小さな会社を経営していたのだけど、最近人に譲ったの。」寂しそうに笑うマヤの表情に、マコトは胸をつかれた。相手に断って煙草に火を点け、話題を変える。
「よく僕のアドレスがわかったねえ。」
「調べさせてもらったのよ。」マヤがマコトを見た。
「え？」
「もう一度、補完を行なおうとしている人達がいる事に気づいたから。」
「マヤちゃん、」マコトの視線が厳しくなった。
「あたしも、せんぱいに逢いたい・・・」マコトの眼を正面から見つめた。
「・・・」
「そのためなら、何でもするわ。」マヤはそういうとパッドを取り出してデータを表示させた。
「これは？」
「専門家に見てもらえばわかるわ。」マヤはメモリスティックを差し出した。



外宇宙探査船団母船アルファ　第弐船体
　レストランの店内は落ち着いた内装と、過不足のないやわらかな間接照明によって、心地よい安らぎを得る事ができるように配慮されていた。それぞれのテーブルからは食事と会話を楽しむ人々の笑いさざめく声が聞こえていた。
「卒業おめでとう」
「おめでとう」
「ありがとう、パパ、ママ！」両親の祝福に、少女は輝く笑顔で応えた。惣流=マリア=オルブレンは、外宇宙探査船団母船、アルファの船内に設置されたハイスクールを無事卒業した。
　マリアは両親に、地球に帰還したいと自分の決心を告げていた。合衆国空軍に志願入隊し、パイロットコースに合格できたら約１年間の訓練の後、宇宙パイロット選抜試験に挑戦するつもりだった。
　娘の門出を祝い、アスカはマリアが欲しがっていたイヤリングを、マックスは新型のパッド（現代のノートＰＣやＰＤＡのようなもの）を贈った。地球のレイコからは、こっちに到着したら買い物につきあって欲しい服を買ってあげる、と書き添えられたお祝いのメッセージが届き、オリオン宙域でオリオン人の遺した球体の研究に没頭するトムソンからもお祝いが届いた。
「体調が悪い時は、無理しちゃ駄目よ、宇宙飛行じゃささいな事が命取りになるんだから。」アスカはさっきから、こまごまとした注意や心配事を娘に言い続けている。
「心配しないで、ママ。」マリアは屈託なく笑う。
「何があってもしぶとく生き残ってやるから。」マックスは母娘のやりとりを微笑みながら黙って聞いていた。
「それから、軍に入る事を宇宙パイロットになるための方便とは決して考えちゃ駄目よ。配属された部隊では、任務に全力を尽くしなさい。」アスカはちょっと厳しい表情になって、娘の顔を見た。
「それから・・・一番大切な事は、勇気。仲間を信じて、訓練で鍛えた自分を信じるのよ。頑張って。」アスカはマリアの手を強く握り締めた。
「うん。」マリアも母の手を握り返した。


　食事の後、司令部に戻るアスカと別れた父娘は、静かなラウンジに並んで腰掛けていた。
「パパ、ごめんね。」マリアは呟く。
「本当は、反対なのよね。あたしがパイロットになる事・・・」仕事柄、マックスは航空宇宙機の事故が今も昔と変わらず悲惨な物である事を嫌と言うほど体験してきた。
「・・・試験に落ちて、諦めてくれないかと思う事もある。」
「パパ・・・」泣き顔になりかけたマリアの顔を、父はちらりと見た。
「お前の一生の問題だから、もの解りのいい事は言いたくない。だから・・・」口に出さなかった言葉を、マックスは酒と共に呑み込んだ。
「パパ・・・」マリアは父の目を見た。彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいたが、意を決したように姿勢を正すと、父に向かって震える声で答えた。
「行かせてください。宇宙を駆けたい、その気持ちを押さえることができないの。」
「そうか・・・」父は微笑むと首をふった。そして、泣き出した愛娘の頭を優しく撫でた。
「碇さんも、ユリちゃんを送り出した時にこんな気持ちになったのかな。」マックスは、まだ直接会った事のない妻の旧友の顔を思い浮かべた。
「マリア、体には気を付けろよ。」
「うん・・・」マックスはグラスに残った飲み物を飲み干した。目配せに応えたバーテンダーは、微笑むとお代わりを作り始めた。



　また一人、末期の患者を看取った。すでに何千人もの人々が、なすすべもなく命を奪われた。隔離治療室を出て洗浄室を通過し、厳重な検査を経てようやく医局に戻る事ができる。毎日数回繰り返す手続きにも慣れてしまった。
「先生、カルテです。」手渡す看護婦も疲れ切っていた。パッドに表示されたデータに目を走らせ、２、３の項目に記入して返そうとしたが、彼女は床に座り込んでいた。上半身が揺れている。
「おいおい、風邪ひくよ、」医師は軽口をたたける自分を我ながらたいしたものだと皮肉っぽく思いながら、看護婦を優しく抱き起こして立たせようとした。
　次の瞬間、医師は大きく息をのみ、そして叫び声をあげた。医局にいた同僚達は一斉に振り返った。
　あってはならない事が起こった。
　看護婦は口から血の混じった大量の吐瀉物を吹き出した。


「大統領閣下・・・」投影された立体映像からも、その憔悴ぶりは明らかだった。アスカは相手の打ちひしがれた様子に言葉を失った。
「アスカ、容易ならざる事態になった。各地に設営した隔離施設は、すでに満杯状態になっているが、未だに病原体の同定ができない。マルチスペクトル・ワクチンも、不連続面抗体もまったく効果がない。このままでは・・・」
「病原体は隔離施設を突破し、全米に拡大する、と？」
「全世界に、だ。」
「マルチスペクトル・ワクチン、不連続抗体は、あらゆるタンパク分子に適合するよう作り出された現代医学の最高の成果のひとつです。それがまったく効果が無いとはどう言う事なのでしょうか？」
「専門家達はパニックを起こしている。」
「カイザーの懸念が現実のものになったのかも。」アスカはつぶやいた。
「司令、」言葉遣いを改めた大統領に、アスカは相手を見た。
「合衆国大統領として、外宇宙探査委員会のメンバーとして、あなたに要請する。プロジェクト・ケースＤ、フェイズ０を発動してください。」大統領の眼には、悲壮な決意があった。
「閣下・・・」

　伝染病への感染を防止するため、外宇宙探査船団のすべての艦艇は、太陽系への帰還を無期限延期することになった。外宇宙探査船団は、地球を棄て、人類の種の絶滅を回避する箱舟となる・・・あってはならないシナリオ、ケースＤが発動された。

「緊急の提案があります！」カイザー=田中は船団司令部を呼び出した。

（つづく）



＊初出：2001/5/27 NIFTY-SERVE FANCREATE MES15

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