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　今朝も、シンジは早起きして独りで朝食をとり、家の掃除を済ませ庭を掃き清めてから工房にこもった。ストックしている材料の乾燥具合を調べ、前日組み立てた楽器の接合・接着部分をチェックする。
　ワークステーションを立ち上げて取引先やクライアントである演奏家達からのメールを見ながらコーヒーを飲み、両腕をぐるぐると動かしてから作業台に向かった。妻の晩年を看取った３年間を除けば、三十年以上続けてきた生活である。

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　マルコとトムソンは、高速艇での移動中、ポール=ヘインズ教授とマックス=オルブレン博士に自分達の考えと計画を説明し、必要な一連の測定と実験の許可を求めた。ヘインズもマックスも、青年達の着想と考察の意味をすぐに理解した。
　問題は、残された時間だ。球体表面に展開する海兵隊はすでに撤収準備を開始している。
「君らの到着を待っていては時間が足りん。ナノマシンのプログラミングはこちらでやっておく。設計書ができるまでどのくらいじゃ？」
「もう、出来てます、先生！」二人はデータを転送した。
「いい子だ！」ヘインズはデータを受け取ると、すぐに研究室のスタッフを召集した。
「諸君、９回の裏２アウト、最後のバッターボックスじゃ！」物理学研究室のメンバーは、指示を受けると作業を開始した。


　撤収作業の中止・延期を求めるヘインンズの提案は、地球の外宇宙探査委員会から拒絶された。
「教授、お気の毒ですが・・・」委員の一人がヘインズに言った。
「しかし、現在実施中の実験の結果如何では、これはこれまでとはまったく異なるアプローチで解析が可能になります。計測データに悪影響を与えるコンタミを排除するためにも、せめて撤収作業を２４時間延期していただきたい！」ヘインズは食い下がる。
「実験結果によっては、考慮の余地もあるでしょう。」委員は首をふった。
「だが、そのために撤収を延期する、と言うのは本末転倒だ。球体表面で活動中の科学者、技術者、それに海兵隊の将兵は総数４００人以上。彼らにこれ以上の危険を犯させるわけにはゆきません。」
「なぜ、そう撤収を急ぐ！？何のための探査航海、何のための船団だ！？」目をかっと見開き、ヘインズは吠える。
「莫大な経費と多くの人命がかかっています。個人の恣意でもてあそぶことはできませんよ、先生。」政治家は、学者を諭す。
「事務屋の発想だな。」ヘインズは吐き捨てるように言った。
「それとも誰かに金玉を握られたか？」老教授は立体映像を睨みつけた。相手は目をそらす。
「まあまあ、」船団幹部の一人、宇宙軍の将官がとりなすように言う。
「教授はお疲れのようだ。今の言葉は聞かなかったことにしましょう」委員は顔をこわばらせた。
「撤収作業は、予定通りに。」アスカは会議の終了を宣した。
「司令！」ヘインズと、何人かの船団幹部がアスカにつめよる。
「残念ですが、すでに決定された事なのです。」船団司令、惣流=アスカ=ラングレー博士は母船の執務室からヘインズに言った。
「司令・・・」ヘインズには返す言葉がなかった。


地球
　超音速旅客機は、闇の支配する領域を飛んでいた。上空には揺らめく光が広がり、はるか下には北極がある。凍てつく空気を切り裂いて、機体は一筋に目的地をめざす。やがて機体は、漆黒の世界を抜け出し、雲海を七色に染め上げる朝日の支配する領域に移動してゆくだろう。

　ドイツに向かう飛行機の中に惣流=レイコ=オルブレンはいた。窓の外では、金色の針のようなあけぼのが闇を溶かし、雲を美しく染め上げ始めていた。客室乗務員のアナウンスは、目的地に定刻どおり着陸する予定であることを告げていた。
　明日、ヨーロッパの経済界を牛耳るコングロマリットのオーナーとの談判に臨む。オーナーは今、ライン河畔の古城で休暇を楽しんでいた。レイコの訪問に対して難色を示していたが、結局、明晩のパーティーへの出席という形で会見を承諾した。
　シートの中でレイコは、アスカから託された書類を手に溜息をついた。
「ママは私に、とっておきの武器を与えてくれた・・・」書類には、簡潔な表現ながら交渉相手に致命的な打撃を与え得る文言がしたためられていた。
「でも、自分は・・・どうするの？本当に何もしないつもりなの？・・・」レイコは窓の外の雲海をみつめた。母は時空を超えた世界にいる。
「船団は、どうなるの？・・・」答えが得られるはずもなかった。


「らしくないわ、アスカ！」会議が終わり、船団中に散らばる幹部達の映像が消えた。傍に控えていた秘書のジャネットは、アスカにくってかかった。
「新しい手がかりが見つかったんでしょ？どうして撤退を延期しないのよ！？」
「手がかりかも知れない。見当はずれの思いつきかも知れない。おおぜいの人々の生命がかかっているのよ、あたしには責任がある。」アスカは椅子に沈みこむようにしてジャネットの言葉にかぶりをふった。
「それは、わかってるけど・・・ヘインズ先生の台詞じゃないけど、私たちが何のためにここにやって来たのかわからないよ。現場の人達、撤退を望んでいるのかしら？」
「恨まれても、怒りをかっても、そうしなければならないのがあたしの役目。残留希望者は、合衆国艦隊の解体調査に参加できるよう、交渉する。」
「トムソンが当事者の一人だから遠慮してるの？」返事はなかった。
「らしくないよ。本当に・・・」秘書は、友は溜息をつき、部屋を出ていった。



球体表面海兵隊前線司令部
　海兵隊の指揮をとるジョーンズ中佐は、撤収準備作業を見守っていた。
　入り口のコールが鳴り、物理学部門の責任者、ヘインズ教授が入ってきた。映像通信を使わず直接指揮所にやって来たヘインズは、２時間後に球体中心部での実験を開始したい旨をジョーンズに申し出た。
「最後のチャンスなんじゃ。」ヘインズは中佐に訴える。
「わかりました。３個分隊をサポートにつけます。しかし・・・球体中心部に移動するために必要な、簡易交通システムの解体までには、必ず先生方も撤収して下さい。球体中心部から戻ってくるのに徒歩なら１０時間近く。失礼だが皆さんの技量では倍以上かかるでしょう。簡易交通システムなしに帰って来ることは不可能です。」
「撤収開始は？」
「５時間後です。」ジョーンズは予定表を見た。
「移動に１時間、実験装置の設置に３時間かかる。もう少し、なんとかならんか？最後まで最善をつくしたい。たのむ。」
「うーむ。」しばし黙考するジョーンズ。彼はワークステーションを操作してスケジュールを調整する。
「そうですね・・・輸送艇のダイヤを変更すれば、あと３時間くらいなら・・・撤収に必要な設備の解体はぎりぎりまで待って皆さんの撤収作業をサポートします。ですが、それ以上はどうしても不可能です。８時間後には必ず撤収してください。すみません、これが精一杯です。」
「・・・ありがとう。最後まで無理を言った。」礼をいい、ヘインズは帰っていった。ジョーンズは、老教授の後ろ姿に何か声をかけたかったが、言葉を発することができなかった。
＜あと、８時間＞


　アニタは、実験船いかろす船内の通路を歩いていた。彼女の後ろにはネットワーク管理を行っていた海兵隊士官がぴったりとついてくる。上着で隠された右手には拳銃が握られていた。
「どこへゆくの？」返事はない。二人は広い船内を船尾方向に移動していた。通路の先には機関室、資材倉庫、転移機関実験施設、等がある。”この男は私の口を塞ぐつもりだ”すでにアニタはそう確信していた。
　アニタはふいに立ち止まり、振り返って相手を見た。士官はぴくりと体を震わせたが、銃の引き鉄は引かなかった。やはり、人気のない所で自分を始末するつもりだ。ここではだれかに見とがめられる恐れがある。いける、まだチャンスはある。軍人としての彼女がアニタを励ます。
「誰か来たわ。後ろをごらん」アニタはできるだけ穏やかな声を出した。相手に一瞬の躊躇、注意がそがれた瞬間を彼女は見逃さなかった。
　平時の宇宙船内で銃を手にしている、と言う緊張と相手を逃がすまいとする意識から、必要以上に間合いを詰め過ぎている相手の手から銃をたたき落とす。拳銃は床にころがった。
「くそっ！」相手は怒りの形相でアニタに殴りかかる。その腕をねじ伏せようと掴んだが、間合いが無さ過ぎた。体格においてはるかに劣る彼女は壁に叩きつけられた。呼吸が止まる。
「死ね！」両手がアニタの首を捉え、壁に押しつけるようにして絞め上げた。途切れそうになる意識を必死に振るい起こして、彼女は相手のみぞおちに拳を叩き込んだ。
「ぐっ」男の顔が苦痛にゆがむ。アニタはよろけた相手の手をふりほどこうとするがうまく行かなかった。そのまま二人は不安定な体制で組み合ったまま数歩よろめき、階段を落下していった。アニタが我にかえったとき、そばに倒れている男の首は不自然な方向に曲がり、頭からは血を流していた。
「何だ？どうした！？」大声で誰何する男達の足音が迫って来た。背中が恐怖と緊張でざわつく。
　”こいつの仲間かも知れない・・・”
　アニタは機関室に飛びこむと、内側から扉をロックした。たしか、この奥には船外作業用の出入り口があったはずだ。外に出れる。だが、外に出てどうすると言うのだ？
「でも、逃げなければ」アニタは宇宙服を身に付け、船外に出た。
　球体内部に向かいながら、アニタは情報を整理しようと頭を働かせる。海兵隊がデータの改竄を行っていた。何故？誰がそんな事を命じた？誰が敵で誰が味方なのか？自分とはかけ離れた所で何かが起ころうとしていることだけは確かだった。


「いかろす後部倉庫付近に死体？」ジョーンズは思わず大声を出した。
「点検用の通路から転落、首の骨を折ったようです。ただ、偶然通りかかった保安要員が、争うような音と現場から走り去る人影を確認しています。」保安関係の責任者が報告する。
「いかろすの第１５エアロックから無許可で船外に出た者がおります。宇宙服ＩＤ９８７７４４００Ａが持ちだされ、行方不明。着用者は通信を切っています。」
「なんてこった・・・」ジョーンズは天井を仰いでうなった。
「死亡したのは、システムズ・エンジニアのウオルター=カミンガム少尉、いかろすに設置された、球体探査用データベースサーバの保守を担当していました。」憲兵隊指揮官から報告が入る。
「船外に逃亡した者は特定できたか？」
「はい・・・現在球体に滞在するメンバーのうち、緊急点呼に対して応答の無い者は一名だけでした。考古学チームのアニタ=ワトソン博士です。」
「ワトソン博士？彼女がウオルターを殺害したと言うのか？」
「状況からは・・・」
「とにかく、彼女の身柄を確保しろ。」
「ワトソン博士はレンジャーの訓練を受けており、球体内部の構造に精通しています。逮捕は至難かと・・・」
「１個分隊に追跡させろ。ただし、絶対に殺すな。事実関係を明らかにしなければならん。」憲兵隊指揮官は敬礼して通話を切った。
「何が起こっているんだ・・・」ジョーンズ中佐は得体の知れない胸騒ぎに襲われた。何かがおかしい。彼は頭を回転させて球体到着以後の出来事を振り返ってみる。だが、異常な点はどこにも見出せない。海兵隊も、科学者達も、懸命に働いてきた。期待された結果が得られなかったが、それはだれのせいでもない。だが、どこかに不自然なものがある。どす黒い予感がジョーンズをいらだたせた。


　マルコとトムソンを乗せた高速艇が球体に着陸する。船内で宇宙服を身に付けた二人は、転がり落ちるように船外に降り立った。慌てた二人は重力のない球体表面にはじかれてもがいた。近くにいた兵士が急いで近寄り、ケーブルで体を固定してくれた。
「予定より早いな。」インカムからヘインズの声が聞こえた。
「高速艇の乗員の方々が、目いっぱい急いで下さいました。」言いながらマルコは船内にいる人々に頭を下げた。兵士達は、拳を上げてそれに応えた。
　侵入口から、球体内部に入る。二人は軽金属の支柱に取り付き、座席のような形のフレームに自分の宇宙服を固定する。二人はお互いの作業を確認すると、マルコはフレームに取り付けられた小さなキーボードを操作する。支柱に取り付けられた動力装置が作動を開始した。
　二人は球体内部の回廊を、時速６０ｋｍ程度の速度で中心に向かって移動していった。所々に照明が設置してあるが、ほとんどが暗闇に包まれていた。球体内部に張り巡らされた簡易交通システムとは、支柱の間に渡されたワイアーロープに取りつけられたフレームに乗り、自分のいる支柱から反対側の支柱まで引っ張ってもらう設備である。二人はこのミニ・ロープウエーを幾度も乗り継いで、無重力の中を球体中心部へと移動していった。１時間後、彼らは仲間の待つ実験場所、研究チームがＲ９３−ＳＤ２２３と呼ぶ区画に到着した。
　そこではすでに、２０名程の人々が作業を行っていた。マルコのプランに従い、球体の動力を制御していると考えられる装置群の中の一つにナノマシンを侵入させ、微細構造の解析を行おうとしているのだ。手詰まりとなった調査：球体の制御システムを解析し、動力システムを押え込んで球体に滞在する人々の安全を確保する、それが、探査委員会に撤退命令を撤回させる唯一の希望だった。
　多数の実験・計測装置が設置され、準備とテストが繰り返されていた。マルコとトムソンも自分の持ち場に急ぐ。
「裁判はどうした？もう諦めたか？」データ通信用ケーブルの敷設を行っていた男がマルコの到着に気付いて手を止めた。
　”例の告発状を書いたのはこいつか”トムソンは相手を見た。
「・・・失礼、時間がないんだ。」マルコは相手の横をすり抜け、ナノマシンの制御装置のある区画に向かって進んでいった。
「待てよ！何だ、偉そうに」男はマルコの腕を掴む。
「よせよ、こんな所で。」トムソンは二人の間に割って入る。
「うるさい、おぼっちゃまは引っ込んでな！」
「なにを！？」トムソンはかっと頭に血が昇らせた。
「何をやっとるんじゃ、バカもん！」耳をつんざく音量で、３人のインカムにどなり声が飛びこんで来た。ヘインズだ。
「あと、６時間しかないぞ！きりきり働け！」一同はそれぞれの持ち場に向かった。

「ナノマシン、プログラミング終了」携帯コンソールにしがみついた青年が大きな声で報告する。
「移送座標、計算完了、いけます！」マルコのコンソールには、損傷箇所と考えられる装置の解析図が表示されていた。電磁パターンから割り出された想定回路図に、データの流れが表示されている。
　マルコは、ポインティング・デバイスを操作して画面上の数箇所をマークした。ナノマシン：分子サイズの解析システムを送りこみ、外部からは探知できない構造を解析する試みだ。
「トムソン、始めるぞ。」
「ああ」
　装置のケーシングに小さな穴が開けられた。毛細官が挿入され、小さな探検家達が発進する。

　ナノマシンは、活動を開始した。プログラムに従い、目標である電子回路素子の表面に接触し、解析を行う。得られたデータは、ナノマシンが発生させる特定波長の振動として外部から観察する者に認識することができる。送られて来たデータがリンクされた解析システムにかけられる。だが、実験開始後1時間を経過しても有意なデータは得られない。
「やはり、駄目か？」ヘインズのスタッフ達に疲労と絶望が広がる。
「そんな、馬鹿な！」マルコはデータの解析条件をさまざまに変化させるが、そこには何の法則性も見出せなかった。
＜あと、４時間＞


　システム・オペレーションセンターで、当直士官はサーバシステムの管理業務を行っていた。実際に行っていたのは、データ改竄プログラムの実行と監視だったが。
　アニタを連れだしたウオルターから、正規のシフトよりも早めに作業を引き継いだのだ。先刻彼が死亡した事を知り、内心穏やかではなかったが、命じられた仕事を放りだして逃げ出すことはできなかった。自分達には大物の後ろ盾がある。何も心配はない。士官は自分に言い聞かせた。
　入り口のコールにセキュリティカメラの映像を見ると、トレーを持った若い娘が微笑んでいた。出前を頼んでおいた夜食が届いたようだ。入って来た娘の服装は軍の略装ではなく、タンクトップにショートパンツという服装だった。私室からそのままやって来たようなラフな格好に、若い士官は気をとられた。露出する、すんなりと長い手足、髪の毛を無造作にまとめ、うなじをのぞかせた様子が艶めかしい。
「いつもの子と違う人だね。」
「エレンが、急に具合悪くなったの。で、非番のあたしが急遽交代。」娘は、にっこりとコケティッシュな笑いをうかべた。
「ここに置くわね。」身をかがめ、食事の乗ったトレーを脇机に置く。半ばあらわになった胸の谷間と、すんなりと伸びた長い足が士官の注意力を奪った。
「あん！」体を起こそうとして姿勢の平衡を失った娘はよろけて士官の肩にすがるように手をふれた。
「ごめんなさい」甘えた声に耳をくすぐられ、にやりと表情を緩めた彼は、背中に生じた微かな痛みには気付かなかった。


「ご苦労。」一言だけ呟いて若槻マサキは電話を切った。彼は唇に笑いを浮かべる。
「こんな形で惣流博士に貸しを作る、と言うのも悪くない、か・・・彼女が知ったら何と言うかな？」低い笑い声が部屋の壁に染み込む。部屋には他にだれもいなかった。もしいれば、彼の表情に背筋を凍りつかせただろう。そんな、嫌な笑いだった。


「今度は、システム・オペレーションセンターに死体だと！？」ジョーンズは吠える。
「検死の結果は心臓麻痺ですが・・・」
「どうなっちまったんだよ、この現場は。まったく。」思わず天井を見上げた所に、デスク上のワークステーションが鳴った。届いたメールに目を通すジョーンズの顔色が変わった。
「スミス、」ジョーンズは憤怒の形相で傍らの副官に呼びかけた。
「俺たちの誇りとは、何だ？」唐突な言葉に驚く副官。
「中佐？」
「見ろ！この恥知らずな手紙を！」ジョーンズは副官に画面を示した。そこには、補給部門の要請に基づき、大型機材の解体作業を前倒しして開始するよう命じる内容がしたためられていた。表向きの理由は輸送艇の運行スケジュールだったが、隠された意図は無骨者のジョーンズにもピンと来た。
「最後まで望みを捨てず、踏みとどまって闘っている奴らに・・・誰だか知らんが、俺達を、栄光ある山猫部隊を腰抜けの馬の糞に堕としめようとしている奴がいる。俺達をつんぼ桟敷に置いて、薄汚いまねをしているやつらが・・・」ジョーンズは副官の瞳に火のような視線を叩き込む。副官は始め寒気を覚え、そして次には焼けつくような怒りがこみあげてきた。
「中佐、俺をお疑いですか！？」誇りを傷つけられた若者は上官に感情をぶつけた。
「スミス、システムズ・エンジニアかプログラマーで、お前が絶対に信頼できると思う奴を何人か連れてこい。死んだ二人のやっていた仕事を洗うんだ！」
「イエッサー！」副官は部屋を飛びだした。
＜あと、３時間＞


球体内部
　ネコのようにしなやかな動作で、壁面を蹴り、体を丸め、手足の振りで重心を移動させることによって、アニタは狭い回廊の中を飛ぶように移動していた。レンジャーとしての厳しい訓練を積み、調査によって球体内部の構造を知悉している彼女でなければ不可能な芸当だ。無重力空間で不用意に跳躍すれば、見当外れの方向に飛ばされて下手をすれば命に関わる。また、目標までの距離と自分の速度を見誤り、壁面に叩きつけられて気を失うかも知れない。
　これまで、２度追っ手らしき姿を目にした。向こうは武装して、高機動パックを装備している。見つかればすぐに追いつかれるだろう。これからどうするべきか、考える時間と場所が欲しかった。アニタは幾重にも入り組んだ回廊を抜け、閉ざされた扉を開き、広い大きな場所に出た。直径２００ｍ近いドーム状の空間で、回廊への入り口と思われる多数の開口部が立体的に設けられていた。開口部の奥行きはちょっと目測できないほどで、前途はいずれも闇の中に溶け込んでいた。これは球体内部の所々に配置されている通路の分岐点であり、多数の回廊を車輪のスポークのように束ねている。
「見覚えのない場所ね・・・」アニタは周囲を見回す。この種のハブエリアは全部で約３００箇所ある。だが、アニタが球体内部に精通しているとは言え、まだ足を踏み入れていない区域は多い、無人ドローンがくまなく探査していると言っても閉ざされた扉を切り開いて進むことは出来ない。球体の居住区画の大半はまだ未知の世界だった。
「いずれ、ここにも来るはずだった・・・」回廊の壁面をなでる。
「太古、文明を発達させ、宇宙に旅立った人達・・・何かを信じ、何かを夢見て、未来に挑戦し、そして・・・逢いたかった、あなた達に・・・」気密ヘルメットの上からでは、あふれる涙をぬぐうことはできない。自分が死ぬ事はとうに覚悟していた。追っ手の武装は、彼女に最悪の予測をさせた。球体には、味方はいない。軍人達はすべて敵なのだ。
「行ってみるか。生きているうちに・・・最後まで、学ばなくては。」アニタは無造作に選んだ回廊に飛び込んでいった。


実験船いかろす
「不正な更新ログと、配信せずに削除されていた中佐あてのワトソン博士からのメールが見つかりました！」メインサーバを解析していた技術者からジョーンズに報告が入る。
「内容を説明してくれ」ジョーンズ中佐は送られて来たレポートに目を丸くした。
「つまり、あれか、この２週間と言うもの、研究者達が収集したデータがすべてこっそり改竄されていた、と言うのか？」
「その通りです。何一つ発見出来なかったのも無理はありません。」
「山猫部隊の栄光は泥にまみれた・・・」ジョーンズは悄然とつぶやいた。
「俺の部下達が、汚い仕事をやらされていた。俺はそれを見過ごした。指揮官失格だな。」唇をかみ締める。
「中佐、」部下が指示を仰ぐ。我に返ったジョーンズは指揮官の顔を取り戻す。
「とにかく、復旧を・・・サーバをもとに戻せるか？」
「再起動をかければ、すぐに復旧します。」
「やれ！」
「イエッサー」エンジニアはシステムをダウンさせた。
＜あと、１時間＞


　それは、閉ざされた扉の向こうにあった。強固に思われた扉のロックは、永い年月によって動力を失い、意外に簡単に開くことができた。
　工場か、格納庫を思わせるような、広い飾り気のない、単調なデザインの大広間・・・その一角に、それはあった。
「大変なものを見つけてしまったわ・・・」アニタは呆然として、目の前に広がる光景を見つめる。それは、巨大で、凶凶しく、そして・・・


　タイムリミットが迫った。ヘインズのチームは、それでも懸命にデータを収集し続けていた。
「・・・？どうしたんだろう？」いかろす船内・ヘインズの研究室で、一人の青年は声を出した。データベース（ＤＢ）サーバとのインタフェースを受け持っていた彼は、入出力システムが次々にダウンしてゆく様子を呆然と見つめていた。
「何があったんだ？」球体中心部に陣取ったメンバー達もパニックに陥る。
「万事休す」天を仰ぐものもいた。
「あれっ！？」さきほどの若者がすっとんきょうな声を上げると同時に、マルコの甲高い声が研究室に響いた。
「おい、データを見ろ！解析できたよ！」一同の目がスクリーンに向けられる。そこには、さきほどとは一変して整然とした数列がならび始めていた。ナノマシンから送られてくるデータは、素子の表面に何かの情報が記憶されていること、そればかりではなく、微小な損傷の存在すらも明らかにした。
　マルコとトムソンは、ついに球体を司っていた制御システムを解析する手がかりをつかんだのだ。


　知らせは、まもなく船団中を駆けめぐる。

　船団司令部と地球の外宇宙探査委員会事務局には、科学者達からの夥しいメールが殺到した。内容は、読むまでもなかった。アスカはヘインズのチームに２４時間の猶予を与え、球体の動力システムを解析するよう厳命した。
　球体表面、海兵隊前線司令部のオペレーションセンターでは、司令部からの指示に基づきジョーンズ中佐が撤収作業の中断を命じ、期せずして歓声が沸き起こった。

　自宅で一人、吉報を待っていたマリアは、アスカからの電話を受け、安堵のため息をついた。マルコや兄のために。そして何より、父母のために。

　パトロール飛行から帰ってきたユリは、待機所で待つエリザベスから知らせを受けた。クラウディアがユリにＶサインで喜びを伝える。非番のはずのオリガとリタも部屋に来ていた。ユリは嬉しかった。船団が難局を切り抜けた事も、自分が新しい仲間達に受け入れられた事も。

　ドイツ、ライン河畔の古城に向かう車中で、イブニング姿のレイコはワシントンからの連絡を受けた。
「よかった・・・」目を閉じて、大きく息をつく。
「私も、頑張るからね、ママ・・・」城壁が近づいてきた。



いかろす船内。システム・オペレーションセンター
　ジョーンズと部下達は、改竄工作に荷担した者の特定を急いだ。すでに数名の尉官、十数名の兵、下士官の名前がつきとめられていた。
「これ以上は無理かもしれんな。」ジョーンズはつぶやく。
「捕らえられた連中は口を閉ざし、その見返りを得るだろう。」
「どういう事ですか？」若い兵士が尋ねた。
「これからも、こっそり汚い仕事を請け負う奴を作るためさ。そのために奴等は約束を守るだろうよ。お互いに・・・」ジョーンズの表情は苦かった。
「中佐、ワトソン博士から連絡です。」一人の兵士が呼びかける。
「何！？」オーディオから雑音に混じったアニタの声が聞こえる。
「重大な発見をしました。すぐに調査を、位置は・・・」通信は途切れた。
「なぜ、こんなに感度が悪いんだ？」
「解析中です。」
「場所は特定できたか？」
「お待ちください。かなり荒いですが・・・はい。座標確認。司令部に連絡しますか？」
「無論だ。追跡中の憲兵隊と連絡はとれるか？」
「通話不能。ジャミングを行っているようです。ワトソン博士の通信も妨害されています。」
「ジャミングだとお？何やってるんだ？まるで・・・」
「まさか、戦闘配置を？」
「いかん、博士を殺るつもりだ！スミス、非常呼集！」
　ジョーンズは大急ぎで宇宙服に高機動パックを装備し、銃を手に球体内部に向かった。


　イカロスのデータベースに行われていた不正に対する研究職の怒りと抗議は海兵隊を始めとする宇宙軍将兵に向けられた。司令部を始めとする仕事場でのトラブル、居住区域でのこぜりあいは船団のムードをぎすぎすしたものにしていた。
　アスカは一連の不祥事の責任はすべて自分に帰する事、残された時間で地球を説得し、撤退の決定を覆す為にはなおデータが足りない事を訴え、事態の収拾を図った。


　ジョーンズ中佐は高機動パックのバーニア・ロケットを全開にして、弾丸のようなスピードで球体内部を飛行していった。同行する兵士達は彼を見失わずについてゆくだけで精一杯だった。
「スミス、どうだ？」
「判明しました。分隊指揮官です！」司令室から副官が報告する。アニタを追跡している分隊のメンバーを調査していたのだ。
「そうか・・・各員につぐ。腐ったリンゴは一個だけだ、いける。ワトソン博士の安全を最優先に。フォーメーション９で突入するぞ！ぬかるな、以上！！」



　ライン河畔の古城、その中庭で催されたパーティーは、レイコに言わせれば悪趣味、の一言だった。酒と雰囲気に酔った男達は彼女に粘りつくような視線を浴びせた。招かれている女性達はみな若く、美貌だったが、申し訳程度の衣服しか身に付けていなかった。
　中庭の中央にはプールがあり、数名の男女が服を脱ぎ捨てながら水遊びに興じていた。庭に面したバルコニーでは楽団がバロック調の曲を演奏していたが、誰も注意をはらってはいないようだった。
「お招きいただき、ありがとうございます。」惣流=レイコ=オルブレンは城の主に呼びかけ、慇懃に頭をさげた。
「・・・ん？ああ、ミス惣流。いつぞやはどうも。」相手は鷹揚に応える。
「盛大なパーティーですこと。」レイコは言葉を継ぐ。
「今夜は一段とお美しい・・・ただ、その、すいぶんとシックな装いですな。」城のあるじはレイコの全身を見回しながら言った。
「不器用なもので・・・時と場合によっては開放的な格好もしますけれど。」レイコは相手のあてこすりに応酬する。
「・・・用件を聞こう。」そして早く帰れと言っているようだった。
「昨年、ＮＡＳＡに航空部品を供給していたマレーシアの工場で事故があり、株価が急落。」レイコは歌うように話し始めた。
「今年に入って、系列企業の経営悪化が表面化してきましたね。最高経営責任者を兼任するあなたは、遅くとも次の四半期末までにご自分が無能な経営者では無いということを証明して見せなくてはならなかった。」
「何が言いたい？」コングロマリットのオーナーはぎろりとレイコを睨みつける。
「マルコ=ローエル氏に対する告発を取り下げてください。お願いします。」
「なに？」
「１８世紀から続く大財閥の総帥でいらっしゃるあなたが、何故弱いもの苛めのような事をなさるのか、私なりに考えてみましたの。」レイコは相手を見た。
「取引銀行すら、まだ気付いていないようですが、ヨーロッパを支配する、とまで言われたコングロマリットも、内情は厳しいようですね。」男の目が微かな動揺を教えた。
「巧妙な会計操作でうまくゴマ化されていますが、売上額の多くはダミー会社を経由してグループ内を還流しているだけ・・・こちらの分析ではすでに負債が資産を大きく上回っている。それが明らかになるのが、工場のトラブルの影響で資金繰りのショートが起こる２ヶ月後。」レイコは鋭い視線で相手を見つめる。コングロマリットのオーナーは目をそらした。
「・・・訴訟資料を検討しました。そちらに勝ち目はないわ。審理に時間を費やし、ローエル氏の特許を紙切れにしてしまう、と言うのはブラフ（はったり）ね、貴方にそれだけの時間は残されていない。次の四半期決算を乗り切れなければ、投機筋の出資者が資本を引き揚げ始め、株主総会で責任を問われる。」
「・・・よく調べた。だが、足りなかったようだな。こちらには他の選択肢もある。訴訟が長期化するならそれでもかまわんよ。」コングロマリットのオーナーは胸をそらす。
「愚かな。どこと繋ぎ融資の約束を取り付けたのか知らないけれど、足元を見られた条件でいかがわしいお金を入れて、これ以上無理な経営を続けるなら、結局はぼろぼろに食い散らかされるわよ。」
「だまれ！・・・君のような小娘に経営の何が解る？」男は頭に血をのぼらせた。
「情けない。仕事から逃げて、こんな所で・・・１００万を超える従業員の生活、株主の信用、貴方は多くのものを背負っているはずよ。お父上は偉大な方だったと言うのに・・・」
「父の話は止めろ！」男はレイコにつかみかかる。それをかわしたレイコは目を伏せた。
「申し訳ありません、言い過ぎました。私も人のことは言えないのに・・・」
「失言はお詫びします。そして、もう一度お願いします。経営者としての自覚を取り戻してください。自分の過ちを素直に認めて、責任をとってください。」レイコは頭を下げた。
「聞けぬな。そのような戯れ言など・・・」頑なな言葉が返った。
「もし、どうしてもローエル氏を潰す、と言うなら、その前に貴方を潰します。」レイコは瞳に冷たい怒りをにじませた。
「でまかせを言うな。」
「でまかせではありません。多くの人々に迷惑をかけるのは本意ではありませんが・・・」レイコは陰気に言う。コングロマリットのオーナーは背筋に冷たいものを感じた。ブラフではない。この女は本気だ。
「やれるものなら、やってみろ。」しわがれた声は最後の方がかすれていた。
「・・・ローエル氏の特許は、確かに画期的なものです。でも、ライセンス生産であったとしても貴方の傘下にある企業は巨額の利益をあげることができたでしょう。それなのに、何故ですか？それほどの損失を、何故？」相手は沈黙したままだった。
「父上を越えようとして、無理をなさったの？」返事はなかった。
「母の言葉を伝えます。『忘れてはならない。星の海を押し渡る翼は、未来の人類の所有物なのだ。』」レイコはきびすを返すと城の出口に向かって歩き出した。
「ミス惣流！」その後姿に、男の声が届いた。
「母上が、スターゲート・ジェネレータの発明でノーベル賞を受賞した時の講演・・・その結びの言葉か・・・」レイコはうなずいた。
「あの時、私はまだ学生だった。」コングロマリットのオーナーは言った。

「告発を取り下げる。」
「ありがとうございます。」ふりかえり、レイコは頭を下げた。


「これを使わずにすんだ。よかった・・・でも、本当はこの書類の存在を察して、恐れて手を引いたのね、きっと。結局、これが切り札になったか。」
ドイツからワシントンへの帰路、レイコは、アスカが託した書類、アスカとマックスが保留してきたスターゲートジェネレータの特許権行使を通告する文書、もしもそうなれば、コングロマリットのオーナーを一晩で破滅させる事のできる最後通牒を、シュレッダーにかけた。

「でも、こんな物出したら、ママもパパもただじゃ済まないわよ、航空宇宙技術の発展のためにあえて創業者利益を得ようとしなかった名誉と評判は地に落ちる。」あの時、レイコはアスカに言った。
「いいの。マルコ=ローエルはあたし達が築いた礎に立ち、さらに大きな飛躍をしてくれる人だもの。そして・・・いつか彼に続く若者達が現れる。そうやってあたし達の夢は続いてゆくの。そんなわくわくするような希望に比べたら、チンケな名誉なんて・・・・それに、友達はみんな解ってくれるわ。あたし達がそうしたなら、そうするしか無かったんだろう、って。それでいいの。」

「・・・私、まだまだね。」レイコは少し悲しそうに微笑んだ。
「まあ、仕方ないかな、惣流=アスカ=ラングレーに勝とうなんて、１０年早いか・・・」レイコは大きく伸びをすると、ノート型ワークステーションを引っ張り出して仕事を始めた。


球体内部
　銃弾が、アニタの至近をかすめた。
「いよいよ、来たか。」アニタはすばやく別の回廊に飛びこむ。最後には殺されるだろう。だが、むざとやられるつもりはなかった。先ほどの通信が、最後の賭けだ。わざと一斉回線でスクランブルもかけずに発信した。できるだけ時間を稼ぐのだ。そうすれば誰かが、ここで自分が発見した物に気付いてくれる。それまでは死ねない。
アニタを追う憲兵隊は、彼女を発見するとすぐに射撃を開始した。分隊指揮官は、部下達に発見し次第射殺せよと命じていたのだ。彼らは、アニタを士官を殺害し逃亡した犯人としてしか知らされていない。それに、指揮官はアニタが武装していると嘘のブリーフィングを行っている。兵士達にためらいはなかった。

　遺跡に重大な損傷を与える恐れのある光学武器の使用は禁止されており、憲兵達は軟質合金の弾頭を使用した火薬式の銃を携行している。高機動パックは、宇宙服を超小型の戦闘機にしてくれるが、無重力空間での装薬銃射撃は、体を大質量物体にしっかりと固定しなければ銃弾と反対方向に弾き飛ばされ、撃った本人も大怪我をする。高速機動を行うことができてもそのままでは射撃は不可能だ。それがアニタにとって唯一のアドバンテージだった。相手が射撃体勢に入った隙をついて別の回廊に逃げ込む。
　銃を構えた兵士達は３方向から廻り込んでアニタが逃れた回廊に突入した。しかし彼らのうち何人かはアニタの張り廻らしたケーブルに絡めとられて動きを封じられた。冷静さを忘れた一人は、別の回廊に飛びこむアニタに銃を向けて引き金を引いた。撃った者は反動で壁に叩き付けられ気を失った。
「つっ！」アニタは反射的に体を丸めて撃たれた箇所をかばった。宇宙服の破損部分で急激な圧力差が生じ、激痛がはしる。手馴れた操作でリペアキットを開け、応急処置を施した。
　服の気密はどうにか補修したが、傷口からの出血はどうすることもできなかった。手足の感覚が麻痺してくるのがわかった。致命傷かも知れない。
「これまでか・・・」覚悟をきめかけたアニタのインカムに、ジョーンズの怒鳴り声が聞こえた。
「撃ち方やめーい、」電磁誘導によってインカムのレシーバーを直接振動させる非常通話システムを使っている。通信システムがジャミングによって使用不能になっているためだ。
　ジョーンズは数名の部下を連れ、アニタ達のいる回廊に飛びこんで来た。同時に数発の閃光弾が炸裂し、回廊にいた者達の行動を封じた。
「大隊長のジョーンズ中佐である。ＩＤは確認したな？ジャミングを切れ。貴様らを指揮している分隊指揮官を軍法違反で逮捕する。彼の命令は無効となった。ワトソン博士を撃ってはならん！」ジョーンズの部下達は一斉に射撃姿勢を取る。憲兵達は、訓練によって叩き込まれた習性によっておとなしく銃をおろし、手をあげて抵抗の意思のないことを示した。
「博士、ワトソン博士、聞こえますか？申し訳ありません。ＤＢサーバを改竄していた者達は捕えられました。ヘインズ教授のチームはデータの解析に成功、司令は撤退の延期を命令しました。ご安心ください、問題は解決しました。」ジョーンズの声には欺瞞は感じられなかった。アニタは安堵の溜息をついた。
　指揮官マークを付けた宇宙服がジョーンズに銃を向けた。何発かの銃弾が彼を貫き、ヘルメットのバイザーを赤く染めた。

「博士！」ジョーンズが近寄る。
「中佐・・・」アニタがかすかに微笑む。出血のため、顔が青白い。
「すぐに医療部に搬送します。」ジョーンズは傷ついたアニタをそっと抱える
「ありがとう。」アニタは微笑み、気を失った。



翌日
　アニタは、幸い一命をとりとめた。宇宙服に内蔵されているビデオシステムが、彼女の発見したものの映像を捉えていた。それを目にしたアスカは自ら調査に向かう決心をし、スタッフを率いて球体にやってきた。
　ヘインズ教授達のグループは、球体の制御機構に動力を供給していたシステムの概要を把握することに成功した、主回路の中にこちらの制御装置を接続することによって万一球体が暴走した場合にエネルギーを遮断することができる見通しがついた。
　アスカは地球と協議、球体からの撤退を中止することを正式に決定した。国連安全保障理事会も同意し、球体には長らく待機させられていた研究スタッフと追加動員された海兵隊員、それにマスコミ関係者を載せた揚陸艇がぞくぞくと到着した。



　それをを目にした瞬間、アスカは体の震えを抑えることができなかった。
「やはり、これは・・・」その巨大なものは、さらに巨大な構造物にとりまかれていた。それはまるで、構造物が巨大なものを押え込んで拘束しているように見てとれた。
「巨大な生物の鎧・・・まさか・・・」同行した科学者の一人がつぶやく。
「ごらんのように、すでに抜け殻です。気の遠くなるような時間が、内部にあったものを風化させてしまったと思われます。かつて球体内部を満たしていた空気：われわれの地球のそれとは異なる組成かもしれませんが：とともに外部に漏出したのではないかと思います。そして・・・」先乗りしていたアニタのスタッフの一人が指差す先には、直径数メートルの球体があった。血のような暗赤色のその物体は、光を反射して鈍く光った。かつてそれは、自ら光を放っていたはずだ。そして光を放ち、巨大な力を生み出したに違いない。ＮＥＲＶの科学者達は、これと同種のものを”ＣＯＲＥ”と呼んでいた。
　アスカはＣＯＲＥに近づく。ＣＯＲＥを取り巻く巨大な鎧のシルエットが、アスカと対峙するように照明の中で浮かびあがった。
　それは、２本の前足をもち、２本の後足で直立していた。発達した筋肉で覆われた尾の存在を想像させる腰部分の造作が生物の異様さを際立たせていた。
「おそらく、球体を建造した人々の姿を映しているのね。何故ならこれは・・・これは彼らのエヴァンゲリオンだから・・・」
「球体内部のあちこちに付着していた物質は、それでは・・・」一行のなかの誰かが口篭もる。
「ＬＣＬ・・・」一同は、言葉も無く立ち尽くしていた。長い沈黙が闇の中に吸い込まれていった。


母船アルファ・司令部
「司令、この間は申し訳ありませんでした。」執務室でジャネットはアスカに頭を下げた。
「司令の深いお考えも解らず・・・許して下さい。」
「ジャネット・・・そうじゃないのよ・・・」アスカはテーブルに目を落とした。
「ヘインズ先生や、皆の努力に期待していたけど、確信なんてなかった。」
「皆を信じて、すべての責任を引きうける覚悟をしていたんでしょ。立派だわ。本当にごめんなさい。」秘書はアスカの言葉に肯いた。
「違うのよ！」叫ぶアスカ。
「ちがう。そんなんじゃない・・・」背を向けるアスカは、出ていってくれと懇願していた。



地球
　工房で仕事に没頭するシンジは、ふと部屋の隅のワークステーションに目をとめた。アラームが鳴り、”映像・着信”のアイコンが輝いていた。
「受信！」シンジの声に呼応して回線オープンを知らせるチャイムがなり、アスカの立体投影像があらわれた。
「ハイ！シンジ」
「やあ。コーヒーでも、といいたいが、無理だね。」シンジが笑う。アスカも笑った。

「仕事の邪魔したわね。」アスカはシンジの映像の廻りに見える、夥しい工具と製作途中の楽器を見た。シンジは微笑んで首をふる。
「今度は、シンジがあたしの仕事を邪魔してね！気が向いたら、シンジから電話をちょうだい、約束よ！」
「え？」
「いいから、約束しなさいよ！」
「わかったわかった。」二人は顔を見合わせて笑った。

「ユリちゃんから、連絡ある？」何事か言いにくそうにしていたアスカは、急に話始めた。
「出港して１年は一度もかけてこなかったが、最近は給料日ごとだよ。」シンジが応える。
「電話代は自分が払う、と決めているようだ。安月給で無理しおって。」
「あはは。」たしかに亜空間通信の通話料金は安くない。
「おかげで元気になった。ありがとう。」
「あたしは何も・・・」アスカは首をふる。
「そんな事ないよ。」シンジは微笑んだ。


「昔の話、してもいい？」アスカがシンジを見た。
「いいとも」
「嫌なくせに・・・」
「アスカなら、いいんだ。」シンジは旧友に微笑む。
「アスカには、借りがあるから・・・」ちらりと視線を落とすシンジ。
「違うわ。借りがあるのはあたしの方よ。」アスカは溜息をついた。
「このごろ、時々ファーストの事を思い出すの。」アスカの言葉に、シンジはちらりと首をかしげた。
「おかしいでしょ。あんなに嫌っていたのに。」シンジの表情をどう受け取ったのか、アスカの口調が少し変わる。
「考えてみれば、おかしなチームだったわよね、あたし達。フォーメーションを組んで戦ったのは第７使徒と第９使徒の時くらい。てんでんばらばらに出ていって各個撃破されるなんてしょっちゅうだった。」アスカはわざと気楽そうな口調でそう言った。まるで、すべて自分のせいだったと言っているようだった。
「シンジ、ファーストの事、好きだった？」
「・・・」
「ごめん。」沈黙が流れた。

「あの頃、本当は使徒が恐かった。」アスカはぽつんとつぶやいた。
「自分は選ばれた存在だ、負けるはずがない。そう思い込んで恐怖を誤魔化していたわ。」
「アスカ？」
「あたしには、船団司令としての責任がある。大勢の人々の命を守らなければ。」アスカはささやくように言葉を繋いでいった。
「宇宙を探査し、知見を得ること。人類が生き延びるために必要な、けれども大きなリスクを伴うプロジェクトだわ。冒険と向こう見ずは違う。場合によっては逃げ出す勇気も持たなければ、ってね。」
「指導者として、正しい姿勢だ。」シンジは言った。
「でも・・・違ってたのかも知れない。あれを見た瞬間、そう思った。ええ、恐かったの・・・」アスカの顔は蒼ざめていた。
「あたしには、予感があったのかも知れないわ。そうよ、過去の亡霊が・・・ケンスケが掴んだ情報・・・前世紀の悪夢が、今も蠢いている・・・」
　アスカの話はとりとめなく、しかも球体での一連の事件について何も知らないシンジにとって意味不明だった。しかしひとつだけ感じ取れることがあった。アスカは脅えている。シンジは胸が痛くなった。
　シンジは椅子から立ちあがり部屋の隅に立てかけられた楽器をとった。まもなくゆったりとした旋律が空気を満たす。それは無論、遥かな時空を隔てた旧友の耳にも届いた。
「きれいな曲ね。」目を閉じてアスカは音楽に聞き入る。
「継続は力、ってやつさ。」シンジが言う。
「何、それ？」
「なんでもない。」シンジは苦笑しながら次の曲に取り掛かった。
「ユーモレスク？」
「そう。」
「優しい時間が流れてゆくようだわ。」アスカは指先で調子をとりながら旋律に身をまかせる。
「あの頃は、演奏が楽しいなんて思わなかった。」シンジがつぶやく。
「今は？」
「ああ。」シンジは笑った。いい笑顔だ。シンジはいい笑顔の大人になった、そう、アスカは思った。
「長い年月が経った。人も、時代も変った。後戻りすることなど、有り得ない。」シンジは断定的にそう言った。
「ありがと、シンジ。」アスカは少しだけ心が軽くなった。

「そうだとも。新しい時を刻んでいるのだ。あの時から・・・」アスカの映像が去ったあと、シンジは自分に確かめるようにそう呟いた。
「そうだよね、綾波、カヲルくん・・・」




１週間後
　マルコとトムソン、その他ヘインズ研究室の面々が母船アルファに凱旋して来た。制御装置の設置を工兵部隊に引き継ぐ仕事も一段落し、教授は研究室の若者達に休暇を与えたのだ。
　マルコもトムソンも上機嫌だった。顔を見合わせると自然に笑いが浮かび、お互いの体を拳で小突きあってまた笑った。
　マルコにはもう一つ吉報が届いていた。ベンチャーキャピタルの弁護士から、メガ社が告発を取り下げた事を知らせて来たのだ。詳しいことはまだ不明だが、メガ社の上層部で何かあったようだとエージェントは言っていた。
　アスカはマルコの面子を慮ってトムソンに口止めをしていた。相手が引き下がってくれたおかげでレイコの交渉はすべて非公式なものとして表に出ることはなかった。
「あんたに借りを作ってはマルコもこの先やりにくいでしょ。知らん顔してなさい。」アスカはトムソンに言い渡した。もとよりトムソンに異存はなかった。
マリアとユリ達が出迎えてくれた。皆で街に繰り出す。愉快だった。


　若槻マサキ。男はそう名乗った。
　マサキは、マルコに彼の事業への出資と提携の話をもちかけて来た。その条件には、とりたてて目を引く内容はなかったが、マルコの意向を汲み、充分な検討を加えられた堅実なものだった。
「せっかくのお申し出ですが、私はまだ大学のベンチャー・キャピタルとの契約を解除したわけではありませんので・・・」マルコは丁重に断ったが、マサキは別に気を悪くした様子は見せなかった。
「存じております。今日は私どもの気持ちをお伝えできれば充分です。」マサキはにこやかに言う。
「時に、例の裁判では、大変でしたね。」マサキは何気なく話題を変えた。
「訴訟手続きなんて初めてで・・・立ち消えになってくれてラッキーでした。」マルコは頭をかく。
「それにしても、よい人を友人にお持ちだ。」
「え？」
「いえ、惣流博士のご子息のことですよ。彼が母上に相談されたのでしょう。転位機関の発明者である博士の影響力は、航空宇宙産業界では絶大なものがありますからなあ。あそこから圧力がかかっては、さすがの大財閥も無視できない。たいしたものだ。」さも関心した風にマサキは言う。マルコの心の中がざらついてきた。
「これであなたも惣流ファミリーの一員ですね、おめでとう。」マサキはにっこり笑った。
「はあ・・・」マルコは黙りこんだ。

　翌日マルコは母船アルファの第参船体に出かけた。先日マリア達と泳ぎに来た所だ。人工の波打ち際に腰をおろし、ぼんやりと”水平線”を見ていた。
「トムソン、サンキュ。でも、僕は・・・」
　どのくらい時間が経過しただろうか。マルコは立ち上がって砂をはらうとポケットから電話を取り出した。

　マルコは新型転移映像システムの特許を売却した。金額は少ないわけではなかったが、特によい条件とは言えなかった。マルコはベンチャーキャピタルからの借入金を返済し、担当してくれたエージェントに応分の報酬を支払った残りを環境プロジェクトに寄付した。



　1ヶ月が過ぎた。
　球体にとりついた科学者達は、それぞれの専門分野において成果をあげつつあった。球体を制御していたシステムからデータを取り出す作業が慎重に進められ、コンピュータの命令セットの解析に始まるデータの本格的な分析によって演算法則、暦法、有理単位系等がまず明らかになった。
　球体を建造した生物を生んだ惑星の大きさ、自転・公転周期、生物の体長・体重等が計算され、惑星の生態系の概要を推定するモデルが作成された。
　人文系の研究者達は、球体を建造した生物の言語体系と生活様式の解明に全力をあげた。その結果、彼らの公用語に相当する言語に関しては基本的な単語２００種程度と単純な文法があきらかになった。
　そして・・・数学者と天文学者を中心としたチームは、あらゆるデータを再度解析にかけ、この球体が宇宙の何処から（正確には、何時の何処から）やってきたのかを推定する作業に着手した。

　船団司令部は、今後の探査活動のマスタープランを発表した。船団本隊は１ヶ月後に発進し、次の目的地に向かう。球体の探査には、第二前衛艦隊の巡洋艦ふぇにっくすを中心とした分遣隊を現地に残すことになった。アニタ=ワトソン博士は未だ重傷の床についていたが、ベッドサイドに３台のワークステーションを置き、医師や看護婦達に叱られながらも研究を続けている。母船の出発後はふぇにっくすに移り、現場に残る研究者達をまとめることになっていた。
　海兵隊のジョーンズ中佐も、引き続き球体に留まる。彼らはいずれ、母星：球体を建造した人々の生まれた惑星に向けて出発することになっていた。
　球体内部に拘束されていたＣＯＲＥを持つ巨人・・・時空を征するほどに発達した技術を持った人々が、どのような歴史を、何故、辿っていったのかを解明することは、人類の今後に大きな影響を与えるだろう。

　ポール=ヘインズ教授と彼のスタッフにも、旅立ちの時が迫っていた。先の実験航海と今回の球体探査で得られた知見をもとに、転位機関の新しい制御方法：空間移動と時間移動の統一理論による記述を検証するための新たな研究に着手することになったのだ。マックスを中心としたグループが実験船いかろすを使用して基礎的な実験を行う一方、ヘインズは数名のスタッフを連れて太陽系に戻り、球体に搭載されている巨大装置の構造をもとにした実験装置の建造に着手する。
　そして・・・
　マルコ=ローエルはヘインズ達の船に便乗して地球に帰る。大学には退学届けを提出した。

「俺・・・何か間違ったのか・・・・？」トムソンはしょんぼりとつぶやいた。

（つづく）


＊初出：99/12/01 NIFTY-SERVE FANCREATE MES15

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